歴史

 芝小の歴史





芝小学校開校
明治(1) 芝学校開校
明治(2) 学校の引っ越し
大正(1) 男女別のクラス
大正(2) 関東大震災
昭和(1) 校歌ができる
昭和(2) 校舎焼失
昭和(3) ゼロからのスタート
昭和(4) 生まれかわった学校
昭和(5) 東京オリンピックのころ
昭和(6) 環境を守る
平成(1) 新しい出発
平成(2) 開校130年
児童集会「学校の歴史クイズ」ビデオ作品


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◆明治のころ

1.芝学校開校

芝学校開校


 今から140年ほど前,明治政府ができました。このころの日本はおよそ200年の間,外国との行き来をとめていたので,いろいろな面で外国よりおくれていました。そこで,新しい政府は,ヨーロッパのすすんだ国々を手本にして,政治や社会のしくみをつぎつぎに改めていきました。

 明治5年,政府は,どこの町や村にも学校をつくる制度(学制)を決めました。このころの学校は,お寺やふつうの家を借りていました。しかし,勉強するためには,お金が必要でしたから,子どもを学校へ通わすことのできない家が,町や村の半分もありました。また,女子は家での仕事があり,特に通うのがむずかしいようでした。

 こうしたなか,明治12年,芝区新掘町31番地に,芝学校(今の芝小学校)が開校されました。学校が建てられた土地には,織田氏の古い家があったので,それを修理して使うことにしました。子どもの数は58名で,先生はたったの4名でした。校長先生も,御田小学校の北村信政先生が2つの学校の校長先生を兼ねていました。それから3ヵ月ほどして,はじめて芝学校専任の校長先生が着任しました。



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◆明治のころ

2.学校の引っ越し

学校の引越し


 芝学校の子どもの数が年々増えてきたので,明治15年には,教室を増やし,明治17年には,3教室も増やしました。芝学校は,しだいに大きな学校になっていきました。名前も,このころ芝小学校になりました。

 しかし,困ったことがおきました。芝小学校のしき地に,新しい大きな道路をつくることになりました。10年間も新掘町ですごしてきましたが,引越しをしなくてはいけなくなりました。

 できるだけ近くに,学校の引越し先を見つけようと頑張り,三田四国町2番地に土地を買い,新しい校舎を建てる計画をすすめましたが,大火事のため中止になりました。ふたたび学校を建てる場所をさがし,江戸時代に力を持っていた薩摩藩の屋敷があったところ(芝2丁目から芝3丁目,4丁目,5丁目)に仮校舎を建てることにしました。

 明治29年に,2階建ての木造校舎が完成しました。当時の芝区でも,指おりの美しい校舎でした。また,学校の校章も完成しました。

 明治33年には,学校の制度が改正になり,約90パーセントの子どもが通うようになりました。わが国の学校制度ができてから,わずか23年問で,ほとんどの子どもが学校に通うことになりました。明治41年には,学校の名前が「芝尋常小学校」と変わりました。

 社会も,どんどん新しくなっていき,町には電燈がつき,汽車も走りました。郵便,電話,交通の発達はめざましいものでした。このように,人々の生活や考え方が変化してきました。  



◆大正のころ

1.男女別のクラス

男女別のクラス


 1912年,時代は「大正」になりました。
   
   
   
   大正3年,ヨーロッパでは,ドイツとイギリスが対立し,これに世界の30ヵ国もの国々が加わって,第一次世界大戦が起きました。イギリスと仲がよかった日本も戦争に加わり,中国やドイツ領南洋諸島を攻げきしました。この戦争は,イギリス,フランス,ロシア,アメリカ,日本等の連合国が勝ちました。
   
   日本は,この戦争で,造船や化学などの工業がさかんになりましたが,戦争中にもののねだんが高くなり,国民の生活は苦しいものでした。
   
   そのころ,芝小学校は,1500名をこえる児童数となり,一度に授業ができなくなり,神明小学校へ310名の友達が分かれていきました。こうして,芝小学校からどんどん兄弟の学校ができていきました。
   
   大正10年には,学校にピアノが「児童保護者会」(今のPTAのような会)から寄贈されました。ピアノは,とてもめずらしい楽器だったので,子どもたちは,きっと,ピアノの調べに心をときめかしたことでしょう。
   
   このころの小学校は,男子クラス,女子クラスがあり,それぞれ別の教室で授業をしていました。男子ばかりが50名も同じ教室ですごしていたので,きっとにぎやかだったことでしょう。



◆大正のころ

2.関東大震災

関東大震災


 大正12年には,開校以来,最大の児童数となりました。児童数1802名,学級数31でした。この児童数は,今の芝小学校の約14倍の人数です。1学年,平均約300名ですから,とてもにぎやかだったことでしょう。

   その年の9月1日,お昼ごろ,はげしい地震が関東地方をおそいました。東京でも,木造の家屋が多かったため,家がつぶれたり,大火災が起こったりしました。8年前に,阪神・淡路大震災が起こりましたが,あれくらいの大きさの地震が東京にも起こりました。

   この関東大震災で,近くの日本電気(NEC)の最新式の建物がつぶれ,たくさんの人命が失われました。芝小学校には,約2万人もの人が避難をしてきたそうです。また,火災で焼けた各学校の連絡事務所になりました。

   関東大震災のあと,東京では,地震にも強い大きなビルがつぎつぎと建てられました。そして,新しい交通機関として,地下鉄,自動車が走るようになりました。新聞・雑誌・電話も普及しました。ラジオ放送がはじまったのも,このころです。

   児童の数が増えて教室が足りないので,午前中に勉強する友だちと,午後から勉強する友だちの「二部授業」が行われました。

   大正15年に,赤羽小学校へ300人の友だちが分かれていきました。これで,二部授業はやめることができました。また,昭和4年には,竹芝小学校へ282人の友だちが分かれていき,お別れ式をしました。


   

◆昭和のころ

1.校歌ができる

校歌ができる


 1926年,時代は「昭和」になりました。
   
   昭和のはじめごろから,童話や童謡のほかに,子どもたちの大好きなマンガ本が数多く出されました。そのなかでも,とくにのら犬が主人公の「のらくろ」は,人気を集めました。
   
   昭和4年には,開校50周年を迎えました。開校50周年記念として,「記念誌」がつくられました。また,学校に電話やピアノ,ミシンも寄贈されました。きっと,子どもたちは,速くきれいにぬえるミシンに,おどろきの声をあげたことでしょう。また,この年,竹芝小学校へも,友達が分かれていきました。
   
   昭和6年には,校庭に「水泳場」ができました。そのころは,「プール」と呼ばず,「水泳場」という名前を用いていました。この水泳場は,わずか1ヵ月の工事で完成したそうです。
   
   さらに,昭和15年には,芝小学校の校歌が正式に定められました。「百船千船入り通う…」という,高野辰之先生作詞・下総皖一先生作曲の校歌は,今日まで約70年近く,入学式,始業式,運動会など,行事があるごとに,歌い続けられてきました。
   
   昭和16年には,太平洋戦争が始まりました。学校の名前も,「芝国民学校」になりました。戦争中は,たくさんの男の人が戦場にむかい,学生や女の子も工場で働きました。芝小学校にとっても,きびしい時代になっていきました。



◆昭和のころ

2.校舎を焼失

校舎を焼失


 昭和19年に,学校で火災が発生し,校舎の大部分が焼けてしまいました。校舎を失った芝小学校は,焼け残った校舎と,竹芝小学校,芝浦小学校の校舎を借りて,授業を再開しました。

 戦争もしだいにはげしくなり,空襲による被害も大きくなりました。そこで,空襲で危険な都会をはなれて,安全な場所へ避難する集団疎開がはじまりました。

 芝小学校では,栃木県の塩谷郡へ疎開しました。子どもたちは親のもとをはなれて生活をしなければならないので,とても不安だったことでしょう。

 子どもたちは,お寺や学寮で生活をはじめました。起床,食事などは,大きなたいこの合図で知らされ,自分の家族のぶじをいのって,「般若心経」をとなえ,お寺の住職さんとともに,おつとめをしました。

 また,子どもたちは近くの国民学校に通学し,町の子どもたちと一緒に学習しました。お寺の庭が広かったので,そこで遊んだり,ラジオ体操をしたりしました。 お寺に泊まっていた人たちは,まっくらの中でも,自分の荷物がわかるよう覚えておくように言われ,いつもたたみの上に整とんしていました。そして,いざというときには,その荷物を持って,防空ごうへ避難しました。

 入浴は,銭湯が近所にあり,毎日,疎開の子どもたちを先に入れて,町の人たちは,あとから入るようにしていました。食料も,芝浦の五十嵐水産より,魚がたくさん送られてきて助かりました。



◆昭和のころ

3.ゼロからのスタート

ゼロからのスタート


 昭和20年8月6日に広島に,9日には長崎に原子爆弾が落とされました。一瞬のうちに,数多くの人命が失われ,きずつきました。長い人類の歴史のなかで,これほどむごいことはありませんでした。そして,8月15日に長くつらい戦争が終わりました。

   芝小学校のあった場所には,焼け野原が広がっているだけでした。校舎はもちろん,あのピアノやミシン,机やいすもありません。戦争後,このような環境のなかで,芝小学校はスタートしました。

   戦争が終わっても,国民のほとんどは,親や子どもを失った上に,食べもの,着るもの,住む家に困っていました。こうした数かぎりない悲しみのなかから,日本の新しい国づくりもはじまりました。

   希望のともしびは,新しい憲法にありました。この憲法は,「もう戦争はしない」「国民が政治のありかたを決める」という平和と民主主義をのべているすばらしいものでした。

   芝小学校の子どもたちも,希望をもって10月に疎開先から帰ってきました。しかし,校舎がなかったので,竹芝小学校の校舎を借りて,授業をはじめました。このころ,芝小学校を廃校にする声もありましたが,地域の人たちの声で,新しく校舎が建てられることになりました。芝小学校に希望の光がさしてきました。

   昭和23年には,給食がはじまりました。このころの給食はこん立てや設備の面でも,いまのように十分ではなく,脱脂粉乳というミルクが使われていました。その後,ミルクとパンだけだった給食に,おかずがでるようになりました。戦争で,やせていた子どもたちの体も,少しずつ大きくなっていきました。


ゼロからのスタート2


 昭和22年4月,「東京都港区立芝小学校」と,いまの校名になりました。これは,学校教育法によるもので,「6・3・3制」という新しい教育がはじまったからです。小学校6年問,中学校3年間は義務教育となり,いまのように,男子と女子が机をならべて勉強するようになりました。ノートも,えんぴつも,教科書さえ十分ではなかったのですが,教室は熱気にみちあふれていました。

 昭和24年には,新しい校舎が完成しました。その後も,校舎が増築され,水洗便所,校庭の整備,図書室,プールのまわりなど,だんだんと校舎が整っていきました。

 遠足もおこなわれるようになり,4年生で埼玉県の長瀞けい谷に行ったり,6年生で神奈川県の油壷湾まで行ったり,いまでは考えられないくらい遠くへ行っていました。また,修学旅行があり,日光や沼津などに1泊2日で行ってきたそうです。

 昭和30年代は,運動会などの行事も活発になりました。運動会では,本芝,北四国,西応寺,新堀の各町会のテントも張られました。このころの写真を見ると,男子の体操着は,半ズボンとはかぎらず,長ズボンの子どももいました。また,野球のユニホームのようなものを着ている子どももいれば,ランニングシャツを着ている子どもがいて,さまざまな服装をしていました。紅白の組分けには,紅白の帽子ではなくて,紅白のハチマキを頭につけていました。

   

◆昭和のころ

4.生まれかわった学校

生まれ変わった学校


 昭和33年,児童数は多いのに,校庭があまり広くなかったので,地域の人たちの願いで,隣の土地を買うことができました。これによって,芝小学校のしき地が広がりました。また,学校から北へ1キロメートルのところに,333メートルの大きな鉄塔,東京タワーが完成した年でもありました。

 昭和38年には,鉄筋3階建ての校舎が完成しました。そのかげには,地域の人たちの協力がありました。校舎をこわす前に大きな荷物を教室から,新しく完成していた体育館に移動したり少しでも良い環境で学習できるように,かべや天じょう,ろうかなどを整備してくれました。そして,校舎が完成するまで,子どもたちは,さらにせまくなった校舎でしたが,元気に仲よく遊び,音楽室がなくても体育館で工夫して学習していました。このような苦労があって,新しい校舎が完成しました。

 この校舎は,理科の設備がよく整えられていて,地球の自転を観測する「フーコー振子」があったり,岩石園がつくられたりしました。また,たくさんの生き物も飼われていました。アヒル,ニワトリ,ホロホロ鳥,リス,ブタ,クジャクなどでした。暑い夏休みも動物が心配で,1日も休まずに登校した子どもたちもいたそうです。鳥小屋のそうじや,えさや水の世話,ふんのしまつなど,とてもたいへんだったことでしょう。

 戦争直後,何もないところからスタートした芝小学校は,わずか13年のうちに,りっぱな学校に生まれかわりました。改築にかかわった人たちのことを深く胸にとどめておきたいものです。



◆昭和のころ

5.東京オリンピックのころ

東京オリンピックのころ


 昭和39年,東京でオリンピックが開かれました。このころ,東京の町は工事が盛んで,高速道路や新幹線もできました。芝の地域にも,少しずつ高い建物が増えてきました。

 オリンピックの入場券は,なかなか手に入れるのがむずかしかったそうですが,それでも,5~6年生の26名が陸上競技を見学に行くことができました。見学できなかった人たちは,テレビで日本の選手の活躍を応援しました。

 このオリンピックが開かれた年に,現在の校服ができました。それ以来,芝小学校の子どもたちは,校服で通学するようになりました。また,東京の町も,しだいに交通量が多くなり,安全な登下校をするために歩道橋がつくられました。しだいに都電は廃止され,代わって地下鉄が建設されました。

 こんな中,学校では,安全教育や道徳,体育などに力を入れた教育が行われ,成果を上げました。

 昭和43年には,芝幼稚園が開園されました。年少クラス40名,年長クラス26名の,66名の子どもたちが入園しました。園長先生は,芝小学校の校長先生が兼ねることになりました。

 こうして,東京オリンピックのころには,ほぼ今の芝小学校の土台が完成しました。



◆昭和のころ

6.環境を守る

環境を守る


 東京のほぼ中心にある芝小学校のまわりには,少しでも土地を有効に使おうとする高いビルが建つようになってきました。芝小学校のすぐそばに高いビルが建つと,ビルの影で学校に日光があたらなくなります。そのため,地域の人たちから,芝小学校の環境を守ろうという声があがりました。そこで,昭和48年には「芝小学校環境対策協議会」が発足しました。

 環境対策協議会では,学校の隣に建築される高層ビルの影響から芝小学校を守るために活動を続けました。地域の人たち,約1万1000名の願いを東京都議会に伝えたのもその一つでした。

 わずか58名の子どもたちと,たった4名の先生で始まった芝小学校も昭和53年には,100歳になりました。そのときお祝いしたようすが,いまの玄関のモザイク絵にえがかれています。

 この年,校舎の南側に大きなビルが建つことに決まり,このビルの影響を受けない校舎を新しく建てることになりました。工事をしている間,子どもたちは,愛宕中学校のあとの仮校舎(いまは御成門中学校になつている)で勉強することになりました。

 工事は,2年半続きました。遠くの仮校舎まで毎日通うのは,どんなにかたいへんだったことでしょう。子どもたちは,毎日がんばり,足がじょうぶになったそうです。仮校舎時代に卒業した先輩たちの苦労を忘れずに,いまの校舎を大切にしていきたいものです。


環境を守る2


 昭和58年,待ちに待った新しい校舎が完成しました。2階にできた校庭は,とてもめずらしいもので,テレビにも紹介され,学校に見学に来る人がたくさんいました。ほかにも,以前あったフーコーの振り子も玄関に設置され,半地下式の体育館,屋上のプールなど,土地を広く使うために,さまざまな工夫がされている校舎でした。

 このすばらしい校舎で,子どもたちは,のびのびと学校生活をおくりました。しかし,いまの学校生活と異なっていることもあります。6年生になると,移動教室は箱根に行きますが,小諸に行っていた時期がありました。また,小諸市立美南ヶ丘小学校をはじめ,式根島小学校と積極的に交流会をおこないました。

 昭和59年には,給食でご飯が出されるようになりました。ほぼ今の給食のようなかたちになりました。

 昭和61年,大島の三原山が噴火しました。大島の人たちは港区内のスポーツセンター,勤労福祉会館などで避難生活をおくりました。大島の子どもたちは,都内の学校に分かれて勉強することになり,芝小学校には,大島町立波浮小学校,元町小学校,北の山小学校の75名の友達が来ました。

 教室は,芝小学校と大島の友達で,とてもにぎやかになりました。机やいす,学習道具は,区からおくられてきましたが,ロッカーなどは,ダンボール箱をくふうして使い,たいへんだったそうです。

 約1ヵ月にわたり,いっしょに遊び,勉強をしてきた大島の友達とも別れるときがやってきました。そこで,お別れ会をすることになりましたが,両校ともはなれがたく,涙が止まらなかったそうです。翌年,元町小学校の6年生と交流会をおこない,いっそう友達のきずなを強くしていきました。



◆平成のころ

1.新しい出発

新しい出発


 昭和63年に,芝小学校は「開校110周年」をむかえました。私たちが,集会や学校の行事で,よく歌う曲「かがやけ芝っ子」がつくられたのも,このときでした。また,むかしの芝のようすを伝える郷土資料室も,地域の人たちの協力で,とてもりっぱなものが完成しました。

   1989年,時代は「平成」になりました。

   このころには,芝の地域にある高層ビルなどがまだ建設中でした。町のあちこちに空き地があり,建設現場がたくさんみられました。

   平成元年,芝小学校は竹芝小学校といっしょになることになりました。竹芝小学校は明治40年に開校した学校で,昭和の初めには芝小学校の282名の友達が,竹芝小学校に移りました。また,昭和21年に戦争で疎開していた芝小学校の児童が帰ってきたときや,昭和24年に校舎が火事で焼けてしまったときには,竹芝小学校の校舎を借りました。芝小学校と竹芝小学校とは,むかしから関係が深い,仲のよい学校でした。

   竹芝小学校のあった場所には「障害保健福祉センター」(ヒューマンぷらざ)が建てられ,竹芝小学校は,障害のある人たちが自分で生活できるように支援する施設に生まれ変わりました。

   地域から愛されてきた竹芝小学校は,この施設と芝小学校のなかで,今も生き続けています。

   平成3年には,コンピュータ室が完成し,パソコン11台が設置されました。このころは,まだ便利なソフトが少なく,パソコンは高価なものだったので,パソコンにさわれるだけで,子どもたちは大喜びでした。

   平成4年には,和室,陶芸窯室が完成しました。学校の中にたたみ敷きの教室があるのはめずらしく,むかし遊び集会のころになると,日本の伝統的な遊びをする子どもたちのすがたが,よく見られました。陶芸窯室も,図工で焼き物ができるようになり子どもたちは,ねん土をこねて焼き上がる白分の作品が,とても楽しみになりました。

   平成10年,芝小学校は「開校120周年」をむかえました。みんなで考えたスローガン「はばたけ芝っ子,とびだせ世界へ」のもとに,運動会,子ども祭り,展覧会,記念式典をいっしょうけんめいにがんばりました。

   私たちの芝小学校ができて120年の間に,1万1千余名もの卒業生をおくりだしました。芝小学校をつくり,育ててきた卒業生や地域の人たちは,みんな芝小学校の発展を願ってきました。

   校舎が足りなくなったり,焼けてしまったりしたときにも,すぐに立ち上がつて,新しい出発をしました。苦しいときも,つらいときも,声をかけあって芝小学校を守り育ててきました。

   多くの人たちの努力と苦労を胸にきざんで,芝小学校の子どもとして,すばらしい伝統を受けつぎ,新しい歴史をつくっていきましょう。そして,21世紀を,芝小学校から世界へ,そして,未来へ大きくはばたき,素晴らしいものにしていきましょう。



◆開校130周年
開校130周年

130周年目の春です

 平成20年11月24日に,芝小学校は「開校130周年」をむかえます。
   現在、児童数は278名になりました。(2008年7月31日現在)

   〔130周年シンボルマーク〕
130周年シンボルマーク