
円山随身稲荷
円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時、桑名よりお迎えしたご本尊を守護するために、江戸までお供されたいわれによります。

「銀世界」梅林
芝公園内にある「銀世界」梅林は、今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地内にあったもので、江戸時代は、「梅屋敷銀世界」と言われていたものを、明治41~42年頃16号地グランドの西側に移植されたが、道路拡張にともない、昭和41年に、この1号地に移されました。
梅林には、2代将軍(秀忠)のお声がかりの梅も移植されていたそうですが、現在はありません。この石碑は、琉球の棟応昌の筆によるもので、梅屋敷内にあったものです。
なお、次に紹介する写真は昭和6年当時の梅林です。後方に五重塔がわずかに見えます。

ペリー提督像
1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官として、ペリーが浦賀(神奈川県)に来航しました。アメリカ大統領フィルモアの国書を提出して退去しましたが、翌年、再び来航し、日本に日米和親条約を結ばせました。
ペリーは1794年、アメリカのロードアイランド州に生まれ、父や兄も海軍の軍人でした。ペリーは「日本遠征記」を執筆し、日本の事情をアメリカの人々に伝えました。1858年、63歳でニューヨークで死去しました。
海軍軍人の家に育ったペリーは、自分自身も子どものときから海軍に入ることをのぞんでいました。海軍士官になってから、軍人としての素質を生かして、指揮官として日本のほか、メキシコやアフリカに遠征しました。ペリーは軍事技術にもすぐれ、1833年、アメリカで最初の蒸気機関による軍艦建造に成功しました。日本に来航した際にペリーの乗っていた、軍艦サスケハナ号も蒸気で動く軍艦でした。

遣米使節碑
日本船として、初めて太平洋を横断したのは勝海舟の咸臨丸ですが、これは幕府の第一回遣米使節を乗せたポーハタン号の護衛船として航海が許されたものです。
発端は、日米通商条約締結の任を果たしたハリスが幕府に対して、批准交換のため、日本より使節を派遣したらどうかと提案したことによります。この使節の正使は新見(しんみ)豊前守ですが、この時、咸臨丸に便乗した福沢諭吉が、その後も海外視察を重ね、「西洋事情」や「学問のすすめ」などを著したのはとても有名です。
1860年1月、使節団はワシントンに向けて出航し、この船上にて条約が調印されることとなりました。

伊皿子貝塚
この貝塚は第一京浜国道の西側に連なる標高約11mの高輪台地上にありました。この土地は、戦前は三井家の敷地でしたが、昭和52年、この地に電々公社(現NTT)の社屋が建設されることになり、昭和53年7月より約1年半をかけて発掘調査が行われました。 遺跡からは、江戸時代の犬猫の供養墓、平安時代古墳時代の竪穴住居跡、弥生時代中期の方形周溝墓、縄文時代後期の貝塚と竪穴住居跡が、順番に重なり合って発見されました。貝塚は、従来縄文時代前期のものとされていましたが、調査の結果、後期(堀之内式期)のものであることが確認されました。遺跡からの出土品(港区指定文化財)と貝層断面は区立港郷土資料館に展示、保存されています。また、「三田台公園」には、住居跡と貝層の断面が復元、展示されています。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

西郷・勝両氏会見地
JR田町駅そば第一京浜国道に沿った、三菱自動車本社ビルの前に「江戸開城、西郷南洲、勝海舟会見之地」の碑が立っています。南洲の孫吉之助の書で地元町会が建てたものです。
慶応4年(1868)3月13日・14日、官軍の江戸城総攻撃直前両者の談判によって、江戸は戦火から救われ、無血開城をすることができました。
しかしこのような歴史上一大転機となった重要な会見の場所が、必ずしも明確ではありません。四国町の上屋敷、池上本門寺、愛宕山などが、他に言われています。
前後の状況から判断すると、予備的な会談は13日薩摩藩下屋敷(高輪のホテル・パシフィック付近)で行われ、翌14日に、この碑の立っている場所付近にあった薩摩藩蔵屋敷で最終的話し合いが行われたものであろうと考えられます。なお、江戸城の開城は4月11日、明治と改元されたのは、9日8日のことでした。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

伊能忠敬測地遺功表
忠敬は延享2年(1745)上総国に生まれ、8歳で養子になり、下総国佐原の伊能家を継ぎました。酒造業を営むかたわら米穀取引業などで努力し、家運を盛り返します。そして、50歳で江戸に出て、幕府の天文方高橋至時(よしとき)に師事して天文暦数を学びました。
当時は実測による地図がなく、至時のすすめもあって寛政12年(1800)、蝦夷地(北海道)の測量を幕府に願い出て許されます。以後文政元年(1818)、73歳で死ぬまでその足跡は全図に及びました。後継者によって、文政4年(1821)大日本沿海輿地(よち)全図が完成しました。海岸のみの測量で、内陸にまでは及びませんでしたが、その精度の高いことは世界を驚かせました。
かれの測量の起点となったのが、高輪の大木戸であった関係で、東京地学協会はその功績をたたえ、明治22年(1889)、ここに遺功表を建てました。その後、戦災で失われたので昭和40年(1965)再建されました。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

丸山貝塚
芝公園内の「丸山」と呼ばれる丘陵の東南斜面に貝層が残存していると考えられていますが、まだ正式の学術調査が行われず、古くから著名なわりにその内容が明らかではありません。表面的な観察によると、ハイガイ・ハマグリなどの海水産の貝殻から成るものと思われますが、従来文化遺物はあまり採集されていません。わずかに安行(あんぎょう)式土器片が発見された事実から縄文時代後期の貝塚と考えられるにとどまっています。丸山の丘上には、大形の丸山古墳が造られており、かなりの破壊を受けていることが考えられますが、斜面に残されている部分があれば都内の貝塚研究のため重要です。 昭和のはじめに調査された鳥居博士によると、この貝塚は、むかし古墳がつくられた時と、増上寺付属建物を建立した時と、すくなくとも2度にわたってかき乱され、遺物がほとんどないといわれています。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

丸山古墳
この古墳は、長さ112mに及び、東京都内では、最大の前方後円墳であり、明治以来注目されて、調査が行われたこともありましたが、増上寺の建立とか、戦後の開発のために、かなり原形を損じ、すでに埋葬主体部は失われていると考えられます。しかし、都内ではまれに見る考古学上重要な資料です。
5世紀ごろの築造とされていますが、明治以来坪井正五郎や鳥居龍蔵の調査で、前方後円墳の周辺に10基の円墳群(消滅)が見られ、同時代の陪塚(ばいちょう)と考えられています。しかし、戦後の開発に伴う明治大学の調査によって、この大小古墳の築造時期にかなりの年代差が認められ、横穴式石室を主体部とするこの円墳群は大古墳より、200年ほど新しいことがわかりました。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

芝東照宮のイチョウ
寛永16年(1639)東照宮再建のときに、三代将軍家光が植えたものと言います。 高さ約25.5m、目通り幹の周囲6.45m、根もとの周囲約9.5mで、なるほど三百年余の樹齢を持つ大木であろうと思われます。
昭和20年(1945)の戦災で社殿は全焼の厄にあい、その後鉄筋コンクリートで再建されてはいますが、往時の面影はしのぶべくもありません。 しかし、イチョウは焼けのこっており、当然猛火をかぶったと思われますが、それに耐え、現在樹勢ますます盛んです。
イチョウは、イチョウ科に属する落葉喬木で、成長すると高さ30mあまりに育ちます。社寺や街路などによく植えられ、春の美しい新緑と秋の黄葉の変化は、その姿の秀麗さとあわせて、東京都の木に指定されています。区内でも神宮外苑や善福寺などに美しい巨木が多く残っています。
次の写真で紹介するのは、東照宮本殿に霊代として安置されている「木造徳川家康座像」で、家康の寿像(生前に長寿を祝ってつくった像)と伝えられています。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

増上寺三解脱門(さんげだつもん)
一般に三門(さんもん)とよばれています。都内では古い建造物の一つで、慶長10年(1605)の建立と伝えられますが、慶長19年8月28日強風で倒壊、元和9年(1623)に再建したという記録があります。また先般の修理の際元和7年の墨書も発見されています。
三門とは本来禅宗で空(くう)門、無想(むそう)門、無作(むさ)門の、3つの解脱のためにはいる門という意味です。
高さ21m、間口19.5m、奥行9m、重層入母屋の屋根、左右に繋塀(つなぎべい)、花頭窓(かとうまど)のついた山廊(さんろう)を持ち、伽藍(がらん)配置上の中門に当たります。上層の屋根を下層のものより大きく造ることにより、重厚さを増しています。
階上には、寄木造金箔置きの釈迦如来と脇侍の普賢、文殊両菩薩、十六羅漢像が安置され、都の有形文化財に指定されています。
昭和46年(1971)から3年の歳月と1億1850万円の費用で解体修理されました。
次に紹介する写真左が「木造釈迦如来及び両脇待像」、右が「木造十六羅漢像」です。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

慶応義塾図書館
明治40年(1907)に慶應義塾創立50周年記念事業の一つとして、建設計画がたてられ募金が行わました。定礎は明治42年(1909)11月、完成は明治45年(1912)4月です。当初の規模は総坪数208.7坪(約630平方メートル)と付属建物6坪(約18平方メートル)で、本館と書庫から成っています。
当時、公共の帝国図書館に次ぐ大図書館で、外観は赤レンガと花崗岩を使用したイギリス風のゴシック建築です。
玄関正面の階段踊り場の大窓に、和田英作の原画による小川三知制作の豪華なステンド・グラスがとりつけられていましたが、戦災でこわれてしまいました。幸い原画は保管されていたので、小川氏の薫陶を受けた大竹龍蔵氏により、昭和49年11月、修理復元がなされました。ステンド・グラスの原画と建物の建築設計図は、建物とともに国の重要文化財に指定されています。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

慶応義塾三田演説館
福沢諭吉が欧米のスピーチの習慣にならい、演説の訓練揚として、アメリカの多くの会堂を参考に私財二千数百円を投じて建てました。
明治8年(1875)5月1日、日本で最初の演説会堂として開館し、以来毎日のように演説会が催されました。
構えは洋風、木造瓦葺、なまこ壁で、内部の三方に階上見物席を設け、中央は吹き抜けになっています。付属建物を併せると総坪数は87坪(約290.3平方メートル)、収容人員は4~500名でした。
最初は現在の塾監局の北側に建てられていましたが、関東大震災後大正13年(1924)9月、保存のため現在の場所稲荷山上に移築されました。
大正4年東京府史跡に、その後昭和35年東京都重宝(建造物)、同42年国の重要文化財に、それぞれ指定されています。昭和50年が開館100年に当たるため記念行事が行われました。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

法泉寺本堂
真宗大谷派の寺です。慶長3年(1598)織田信長の家臣であった相馬兵庫介純海によって、ここに寺がつくられ、はじめは法泉寺誠諦庵(せいたいあん)と言ったといいます。
天明の大火で付近一帯とともに寺も焼け、寛政10年(1798)に本堂が再建されましたが、それが今の建物です。「奉造立・・・寛政十戊午年」の棟札があります。
現在の屋根は寄棟造りであすが、もとは入母屋造りでした。また外まわりに土壁を厚く塗り、土蔵造りにしたのは明治になってからです。そのために太平洋戦争の戦災からも焼け残ることができました。
土蔵造りの家はもちろん江戸時代からありましたが、明治に入ってからは防火のために、一般の庶民の家も土蔵造りにすることが奨励されるようになりました。 区内の土蔵造り寺院としては、他に三田4丁目の宝生院本堂、南麻布3丁目の明称寺本堂があります。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

最初のオランダ公使宿館跡
安政5年(1858)に結ばれた日蘭通商条約によって、翌6年9月西応寺に公使宿館を設置しました。
使用されたのは書院および庫裡の2階などで、初代公使クルチウスらが駐在しました。文久元年(1861)5月に200両余の費用で、書院や庫裡の修理を行った記録があります。
ところが、慶応3年(1867)12月25日の薩摩屋敷焼打ち事件のときに隣凍していたので全焼してしまいました。そのために貴重なオランダ公館日誌その他の諸記録は失われました。
旧公使館跡は、今の西応寺(昭和35年再建:芝2-25-6)のとなりの、同寺が経営しているみなと幼稚園のところにあったと言われています。当寺16世の存冏(そんけい)は増上寺12世観智国師存応と兄弟弟子であった関係から、家康の保護を受け、江戸時代には大寺でした。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)

芝浦協働会館
協働会館は昭和11年(1936)に建てられた近代和風建築です。もともとは、芝浦花柳界の見番(検番とも書く)として建てられました。花街(花柳界)とは、芸者のいる「置屋」、宴会のできる場所である「料亭」、芸者を呼んで遊興する「待合」という「三業」から構成されています。これらの三業をとりまとめ、芸者の取り次ぎや精算を行うのが「見番」です。
協働会館の建物は、唐破風の玄関に百畳もの大広間、良質の材木をふんだんに使い、近代木造建築の技術と意匠を巧みに織りあわせ贅を尽くした建物です。まさに、芝浦花柳界の賑わいを象徴する建物でしたが、見番として使われた期間は短く、戦中に花柳界が疎開したことにより、この建物は東京都による港湾労働者の宿泊所として転用され、大広間は市民に利用されながら今に至っています。また周囲には元置屋、料亭などの建物も残っており、一帯が花街だった時代の面影を伝えています。

この建物のように贅沢に作られた見番は、もはや東京のどこにもなく、花柳界の文化を伝える数少ない遺産であり、また当時の木造建築物の高い技術と豊かな意匠を教えてくれる貴重な建築でもあります。
建替えのため取り壊しが予定されてはいますが、この貴重な遺産を受け継ぎ、活用されつづけることを願っています。
(芝浦・協働会館を活かす会:「協働会館」より引用)
往時の面影を語る写真として、前景の様子と玄関を入ってすぐ左手の階段の様子をご紹介します。